【解釈】推し、燃ゆ

書評

 今回は、宇佐美りんさんの著作『推し、燃ゆ』について話します。

推し、燃ゆ のリンクはこちら。

 第164回芥川賞を受賞した作品です。
かなり有名かつ話題になった本ではないかと思います。
ただ「推し活なんて自分には関係ない」と読まなかった方もいると思います。
私がそうでした。大間違いでした。

 この本の面白さを、個人的な妄想も含めて解説したいと思います。
完全素人が書く記事ですから「なんかへんなこと言ってるな」と思いながら、読んでいってください。

 また、かなりネタバレも含まれます。
まだ本作を読んでいない方で、ネタバレを回避したい方、こういう記事が嫌だという方は、このままブラウザバックしてください。

あらすじ

 主人公のあかりは、アイドルである上野正幸を推している。
彼はあかりの人生の中心であり『背骨』である。
そんな彼を『解釈』するのがあかりにとっての推し活である。

 あかりは皆が普通にできることができなかった。
幼いころ、数字を数えられなかった、漢字も書けなかった。
今でもそうだ。勉強はやっぱりできないし、バイトだってうまくできない。

 そんなあかりは、推し活だけは本気で打ち込めた。
それが人生だったし、それではじめて『生きている』という実感があった。
現実世界は辛く苦しくても、推しを解釈するSNSでは満足に息が吸えた。
いままでそうやってあかりは生きながらえてきた。

 そんな推しは、ある日突然、炎上した。
あかりの人生の急落が、いや、錯覚の瓦解が、ここから始まった。 

考察

 考察なんて大したものではないですが…

背骨(前提1)

 まずは、考察する上で必要な『背骨』について。

 推しと出会い、推し活を始めたあかりは、ずっとSNSに籠っていました。
そして次第に、推しを『まるごと解釈する』という推し活が、あかりにとって生活の中心になります。

だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。

宇佐美りん,『推し、燃ゆ』,単行本 p.37

 この辺りで、本作の違和感が現れ始めます。
生活の中心で、なにより大切なものは、普通は心の中にあると思うのです。
そんな核であり、中心であるものが、『背骨である』という…

何かしらの苦行、みたいに自分自身が背骨に集約されていく。余計なものが削ぎ落とされて、背骨だけになってく。

宇佐美りん,『推し、燃ゆ』,単行本 p.38

 この『背骨』の描写は、解釈が分かれる気がしますが、間違いなくこの作品の核の1つです。

推しを『解釈』するということ(前提2)

 次に大切な、解釈する、ということについて。

 あかりの推し活は普通のものではありません。
推しの言動から、推しの性格や好きなもの、人間性、そういったものを解釈するのです。

あたしのスタンスは作品も人もまるごと解釈し続けることだった。推しの見る世界を見たかった。

宇佐美りん,『推し、燃ゆ』,単行本 p.18

そう願い続けてブログを書き溜めてきたあかりにも、推しがファンを殴るとは思えなかった。
この部分も、結構大切です。

考えたこと(本題)

 私がこの作品を読んだときに感じた肝、というかテーマ。
それは、あかりの心身解離についてです。

 この作品を読んだ方の中には、「肉体表現が生々しすぎる」とか「最後の数ページだけ、それまでと様子が違うから違和感があった」という人もいるでしょう。
この感覚が、私が思うに本作のもっともよい部分です。

 この作品は、初めから通してあかりが語り部として存在しています。
しかしながら、どうしようもなく、自身も他者も含めて肉体に関する表現がよそよそしいのが特徴です。
これは実際に読めばわかると思います。

そんなよそよそしさを顕著に感じるのが次の部分です。

姉だったらこういうとき臆面もなく涙を流せるのかもしれないが、あたしはそれを甘えかかるようで卑しいと思う。肉体に負けている感じがする。噛んでいた上下の歯を緩ませる。目頭から力を抜いて少しずつ、意識を離していく。

宇佐美りん,『推し、燃ゆ』,単行本 p.74

肉体に負けている感じがする。
さて、ここで考えたいのは現実と理想の解離です。

あかりにとって、身体(=現実)は邪魔で、重たくて、苦しさの象徴。
対して心(=理想)は、居心地がよく、むしろこちらだけが本当の自分で、生きていると感じられる。
そうやってこれまで生きてきた。そう錯覚して、生きながらえてきたのではないでしょうか。

でも『背骨』は身体の一部じゃない?

確かにそうです。でも普通、身体が削がれ消失したそのときにあるものと言えば魂(=心)だと思うのです。
でもあかりは、そう思えない。そもそも、身体の中に心が存在していないと思っている。
心なんて疾うに消え失せているのかもしれない。
なんにせよ身体と心は別ものだから、削がれて残るのは骨としての、物質としての『背骨』なのではないか。

 そんな錯覚が瓦解し始めたのが、本作品の冒頭。

推しが燃えた。

宇佐美りん,『推し、燃ゆ』,単行本 p.1

時間が経つごとに錯覚が脆く砂ぼこりのように舞い落ちていく中、あかりの心は身体へと近づき、そして最後のライブ、トイレの中で融合する。
だから、あかりから『背骨』が奪われるその瞬間

冷や汗のような涙が流れていた。同時に、間抜けな音を立てて尿がこぼれ落ちる。さみしかった。耐えがたいさみしさに膝が震えた。

宇佐美りん,『推し、燃ゆ』,単行本 p.112

負けたなどと、感じることができなかったのです。

 ライブが終わって放心状態になったのも、いままで見向きもしなかった彼の家へと向かったのも、身体と心が融合したから。言ってしまえば、自分の意志で身体が動くようになったのです。

 そしてあかりは、こんなことにも気づきます。

なぜ推しは人を殴ったのだろう、という問いを避け続けていた。(中略)解釈のしようがない。

宇佐美りん,『推し、燃ゆ』,単行本 p.122

……引用を最小限に、というのが難しい。
それは置いておいて、アイドルを辞めた推しはただの人で、解釈ができなくなりました。
これまでのあかりにとって推しは理想(=心)の世界にいた。というより、そんな世界に閉じ込めていました。 

それがいま、これまで行ってきた解釈なんて妄想とも違わず彼が現実を生きる人間だということを思い出したのです。
理想の世界で味方だと思っていた推しは、本当にただの人間だった。

以下、最後の数ページ。

ずっと、生まれたときから今までずっと、自分の肉が重たくてうっとうしかった。

宇佐美りん,『推し、燃ゆ』,単行本 p.124

この直後には有名な綿棒のシーン。
たぶんあかりは理想の世界に住むあかりを殺しました。
現実に住むあかりは、やっぱり理想に住むあかりの敵なのかもしれません。
そしてきっと現実のあかりが綿棒を、彼女の骨と見立てて拾うのです。

体は重かった。綿棒をひろった。

宇佐美りん,『推し、燃ゆ』,単行本 p.125

確かに体は重い。でももう、鬱陶しくなんてない。
心身が結びついたいま、このままでも生きていこうと決めたいま、はじめてあかりは、あかりになったのです。

感想

 本当はもっと書きたいことがありました。
でもやっぱり本作を読んでほしいと思うからやめました。
それに、ただでさえグチャグチャなのにこれ以上は目も当てられません。

 できない人間の苦しみも、傷つくことになれた悲しさもわかる。
生きていて苦しいと思う、だからこそ生きていてよい。自分には存在価値がある。
そう思ってしまう不甲斐なさに、心当たりがある。

 推しを失う、という現代になってようやく当たり前になった事象がテーマですが、その実は人間のもつ普遍的な苦しみへ立ち向かい始めた少女の物語。

 よく頑張ったね、と思う。

推し、燃ゆ のリンクはこちら。

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