今回は、乗代雄介さんの著作『二十四五』について話します。
第172回芥川賞の候補作だった本作。
表紙から美しいと思って衝動買いしたこの作品は、中身もずっと美しかった。
これまで同様好き勝手に書いていますし、ネタバレも多くあります。
生理的に受け付けないよっていう方はそっ閉じしてくださいね。
あらすじ
景子は仙台へ向かっている。
生まれも育ちも仙台ではないが、弟の結婚式を仙台でやるためだ。
叔母が亡くなったのは五年前、実家を出たのは二年前。
景子の歳は二十四五。
喪失を抱え生きていく景子を、囲む人々を、その営みを、鮮やかに描く。
解釈
あらすじ、合ってるかな???
さて、これ以降はネタバレ前回です。
ネタバレなしで読みたい方は、読んでからもう一度お越しください!
この作品について
恥ずかしながら、乗代雄介さんの本は初めて読みました。
本作品でがっつり引き込まれ調べたのですが、過去の作品に『十七八より』という作品が…
この作品、『十七八より』の続編の形を取っているらしいのです。
『二十四五』も単体で読めますし、むしろ知らない方が楽しいなんてこともあり得ますが…
なにより驚いたのは、続編が芥川賞候補作になったの?! ということでした。
私が知らないだけでそういう作品もたくさんあるのかもしれないのですが、ちょっとビックリしました。
叔母
さて、なぜ『十七八より』の話をしたかは、たぶん中盤くらいになったらわかります。
本気でネタバレしますね。
いやあの流れで『叔母とゆき江ちゃんが同一人物』なんてわかんねぇよ(褒)
たぶん、『十七八より』をすでに読んでいた方は、違和感なく入っていけたと思います。
でもね私は叔母のことを(なんなら家族のことを)ちゃん付けで呼んだことないんよ。
でも本当にすごいのが、この二人が同一人物ではないか? と思った次のページで、ネタ晴らしされるんですよね。
これって本当に作者の技量だと思うのです。
そんなに読者のことをコントロールできませんよ…
生きている家族との関係
両親と弟、さらにこの物語では弟の嫁とその両親が家族になりました。
たぶん景子にとってこの家族がとても大切な存在だというのは、本作を通して節々から分かります。
しかしどうしても分かり合えない部分はあるのです。
それも、初めて家族になったという関係性であれば。
そのあたりも含めてとても美しく、素敵な物語だと思います。
特に弟との絆には凄みを感じますね。
『レン』を共に忘れない二人、弥子の母と景子の会話に割って入ってくる様子などなど…
そう思ったら改めて『十七八より』を読まなくては!と思いました。
もしかすると、弟もたくさん助けてもらったのかもしれないなって。
死者はここにはいない
こういう類のやるせなさってありますよね。
すべては後の祭りで、私がいま何をしたところで叔母は書くことはないのです。
中盤から終盤にかけて、ずっとそれを問いかけてきます。
この作品は本質がどれかというのを掴むのが難しいです。
(というか私には掴めませんでした)
しかし、きっとここも大きなポイントなのではないかと思うのです。
最後の館腰でのシーンってなんだったんだろう
おそらく「急に震災のシーン出てきたな」と思った方もいるでしょう。
違和感を感じたというか、別に不要ではないかと思うのもきっと、無理はありません。
しかしそれを知った上で敢えて言いたいのは、これは紛れもなく必要な描写だということです。
まず第一に、誰が言っていたかは忘れてしまいましたが、こんなことを言っていた作家(もしくは出版業界の人)がいます。
もうそろそろ、震災文学が必要な時期に来ている。
この意味で必要な描写です。
芥川賞の候補作になったのも、ちょっとは関係があるのではないでしょうか。(知らんけど)
戦争や災害、人間ではどうしようもないことが普通に起こるこの世界で、小説家は人間を救うために生きなくてはならない。
救う人間は身近な者かもしれないし、遠く遠くの顔も見たことがない人かもしれない。はたまた、小説家自身かもしれない。
誰を救うとしても、小説家は人間を救うために生きている。
ならば、震災小説を書くのは必然で、もはや義務なのです。
これは私自身も信じているいわば信念的なものですから、説得力には欠けますよね…
そして二つ目。
それは、病気も震災も、それ以外の死も、どれも結局は理不尽なのです。
景子はこのシーンで、『書く』という呪いを赦すことができたのではないかと思います。
理不尽を経験した人、その互いが互い自身を赦すことができたシーンなのではないか…
結局、どれだけ考えても震災の描写である必要性があると説得しきれる気がしませんが、どこかでそう感じます。
伝えきれないのが悔しいな…
気になっているのは、仙台という舞台を被災地だから持ってきたのか、逆に仙台だから被災地だという事実を持ってきたのかという点です。
どこかの記事に書いてあったりするのでしょうか…
被災者であることに丸投げ、と言われたら、それまでな気もします…
感想
景子が何を見たのか、その光景を直接のぞくことはできない。
そしてそれは現実世界を生きる私たちも同じです。
喪失を抱えたまま生きるのは、意外と簡単です。
難しいのは、『喪失を抱えた自分自身』を抱えたまま生きること。
誰かが一緒になって支えてくれるからこそ、なんとか呼吸をして日々を暮らしていける。
そんな当たり前を、叔母の痕跡と共に思い出していく。
そんな物語なのではないかと思います。
景子の息遣い、視線、細かな動作そのすべてが、まるで目の前で生きているかのように感じられました。
一種の生々しさまであり、それが個人的には大好きでした。
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